2018.04.23社員ブログ

ポスター製造スタッフ【成井の目】ビュリホー!

おはようございます。
製造・成井です。

ひすいこたろう氏の著書から・・・

以前、熊本の幣立神宮で正式参拝をさせてもらったときに、神主さんがこんな話をしてくれました。
「日本人が大事にしてきた叡智である『神道』には、あるものが無いんです。
他の宗教だったら考えられない、決定的なものが無い。なんだと思いますか?」

なんだと思いますか?

答えは「教えが無い」んだそうです。

教えが無い宗教なんて、他に考えられます?
でも、教えが無いから相手を裁かないし、ケンカせずに相手に合わすことができるんです。

教えが無いということは、教えを守らなかったときに落ちる地獄もないということ。
地獄が無いから、誰かに救ってもらうべく救世主も必要ないのです。
日本人は救世主を持たなくても一人ひとりが内なる叡智とつながっていけると考えていたのです。

教えは無い。救世主もいない。そんなの宗教じゃない(笑)。
そう、宗教じゃないんです。
「神道」は宗教ではなく、日本人の「生活」だったんです。

神主さんの話にはまだ続きがありました。
「では、教えが無い代わりに、何があったと思いますか?」

答えは「美しいか、美しくないかで判断する感性があったんです」

「その行為は美しいのか?」
これが日本人の生活(神道)の本質だったわけです。

「なぜジョブズは、黒いタートルネックしか着なかったのか?」ひすいこたろう著
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以前、当ブログにも書きましたが、薩摩(現在の鹿児島県)に伝わる
「薩摩の教え」というものがあります。

1、何かに挑戦し、成功した者
2、何かに挑戦し、失敗した者
3、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者
4、何もしなかった者
5、何もせず批判だけしている者

これは、美しさの順序といっても良いでしょう。
正しいか、間違っているかで判断しようとすると、
「自分は正しい、相手は間違っている」とお互いが思っているわけですから、ケンカになります。

美しいか、美しくないかを基準にしたら、そもそも言い合うことさえも粋じゃない気がします。
生き様の美しさを魅せ合うようになったらいいですね。

今日も毛が無く、否、怪我無く!