2019.02.04社員ブログ

ポスター製造スタッフ【成井の目】怒る? 叱る?

おはようございます。
製造・成井です。

以前聴いた法話からです。

お寺の門の両脇に立つ仁王像は、身震いするような激しい形相です。
皆さんは「慈悲の教えである仏教に何故このような形相で?」と思われるでしょうが、
実は、仏の慈悲の一つの現れとして、仁王像は彫られてます。

仁王様は、人々の迷いの心を「怒っている」のではなく、「叱っている」姿なのです。

「怒る」と「叱る」は、違います。
「バカヤロー」と怒鳴っている声や顔だけでは、
怒っているのか、叱っているのか、判断できません。
声の大きさや形相では、怒っているのか、叱っているのか分かりませんね。

どうしてでしょう?
その違いは「心」にあるからなんです。

「怒り」は、仏教では『瞋恚(しんい)』といって、
全てを焼き尽くすことから「炎」にたとえられる恐ろしい心です。
自分の言うことを聞かない者や、自分の悪口を言う者に対して起きる心です。
その人がいると自分の思い通りにならない、自分にとって邪魔な人に対して起きる心なんです。
常に発想の中心が「自分」。
自分の損得のことばかり、いつも考えている人に起きる心です。
その心にまかせて「バカヤロー」と怒り散らせば、周りも本人も不幸にしていきます。

一方「叱る」のは、相手に何とかよくなってもらいたい、相手に幸せになってもらいたい、
今苦しんでいる相手の苦しみをなんとかできないか、との想いから、
その人のために発する言葉です。
その発想の中心は「相手」です。
叱られた人は気分を害するだろうし、自分を嫌うかもしれない。
誰も嫌われたくありませんから、皆、つい叱るのを躊躇してしまいます。
そして、大抵は叱らないで、陰で「あれではダメだ」と笑ったり馬鹿にするのです。

そんな中、損得無く嫌われるのも覚悟して、その言いにくいことを指摘してくれるのが
「叱る」という行為ですから、これは慈悲心がなければできないことなんです。

今の時代、慈悲心から「バカヤロー」と真剣に叱ってくれる人があれば
そんな人は人生にもそうそういない、とてもありがたい人なのです。
叱られた当人は、なかなか有り難いとは思えないのですが、
この心の向きが変われば、ガラッと自分も周りも変わっていくのです。
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怒っているのか、叱っているのか。
怒られているのか、叱られているのか。

時が経ち、身心が成長して初めて気づく時もありますから
やはり磨くべきは「心」ということなんですね。

今日も毛が無く、否、怪我無く!